アスリートの道 中山英子選手(スケルトン)

nakayama06

 

Qスケルトン競技に入る前のことを少しお聞かせ下さい。

 

 中学・高校時代は陸上部で100メートルハードルの選手でしたが、自分の種目では県大会止まりでした。スタートから3台目までの練習を繰り返し行っており、その辺りまでは速かったです。とにかく目標物までボーンと行くという練習ばかりしていました。

 

Q それは30メートルぐらいですか。

 

 はい。ハードルを3台置いた距離がおそらく30メートルぐらいで、特にクラウチングで鋭くスタートし、一台目をめがけて行く感覚がスケルトンのスタートにとても役立ったと感じています。

 

Q スケルトンで走る距離はどのぐらいですか。

 

 ソリを押しながら20歩ぐらいでソリに乗り込みますので、走る距離は30メートル前後かと思われます。

 

Q スケルトンは、100メートル走みたいに雷管の合図でスタートするのではなく、自分のタイミングでスタートを切るのですか。

 

 そうです。タイミングは自分で取り、コースを一人でそりを押しながら走って乗り込むので、他人との競走ではありません。ランプがついて30秒以内にスタート板から15m先にあるラインを越えなくてはならないというルールがあります

 

Q スキーのアルペンのスタートのような感じですか。

 

 そういう感じですが、スケルトンの場合は、スタート板を蹴り出していくのですけれども、15メートル先から光電管が作動(タイムが切られる)します。

 

Q 走り出して15メートルまでは、タイムに関係ないのですか。

 

 関係ないですが助走区間なので、いかに加速するかということが大切です。

 

Q その15メートル先というのは、ソリに乗り込む前ですか。

 

 はい。

 

Q スケルトンを始められたきっかけを教えていただけますか。

 

 陸上は高校でやめてしまい、大学は普通に受験して入りました。

大学時代はスポーツ新聞をつくるサークルに所属して、選手に取材をしていました。

その後、オリンピックが長野で開催されることもあったので受験した地元長野県の新聞社に縁があり入社しまして、1998年の長野オリンピックの時に運動部に配属になりました。

 

Q オリンピックのときに運動部の記者をされたのですか。

 

 そうです。オリンピックの前年から2年半ぐらい運動部にいましたので、オリンピックに出場する選手たちを中心に取材しました。

 

Q それまではどこの部署にいらしたのですか。

 

 まず、入社したときは社会部に配属されて、そのあと整理部でレイアウトなどの仕事をしていました。

整理部は深夜勤もあったので、昼間スキーに行く事ができました。なので、その2年半の間はスキーにはまって、冬場は相当滑っていました。しかし長野五輪の前年に運動部に異動になり、昼間にスキーができない環境になりました。

 

Q スケルトンとの出合いは?

 

運動部に配属され、私はそり競技であるボブスレーとリュージュの担当になり、飯綱にある競技施設によく通うようになりました。取材を通じて、ソリ競技の中にスケルトンという種目があることを知りました。

長野五輪の時は正式種目にはなかったのですが、すでに海外ではワールドカップが行われていました。

競技施設に頻繁に通っていたこともあり、何となくですが、1回ぐらいこのコースを自力で上から下まで滑ってみたいなと思うようになりました。自分で操縦して滑られるのはスケルトンだということを知りました。

長野五輪が終わった後、運動部から文化部に異動したので施設に行く回数は減ったのですが、自分で滑るために身体を少しずつ鍛え始め、スケルトンのためのトレーニングを始めて、1998年の冬に乗ったらスキーの感覚と似ていたので、とてもおもしろくて、はまりました。

夏場はスタートの練習しかできないのですが、高校時代にハードルをやっていたときのスタートダッシュが生きたのか、スタートだけは元々スケルトンをやっていた女性よりもかなり速かったです。

 

Q スピードは怖くなかったのですか。

 

 最初の一本目は怖くて、滑り終わったら車酔いしたような感じになりましたが、二本目からは不思議と恐怖心はなくなり気持ちいいと感じました。元々怖いもの知らずの性格が手伝って、滑走は当然下手でしたが、気持ちよくて楽しくてヒラヒラと滑っていました。

スケルトンは肩から膝までを使って体重移動しながら操作をしますが、たくさん操作すると逆に遅くなってしまい、力を抜いて滑らないとなかなかタイムが出ません。

その当時、楽しくて、力が抜けてただフワンと滑っていたから、恐怖心もなくスピードも出たのだと思います。

 

 

 

会社員からスケルトンの選手に!

Q その後、どうやって会社員から選手になったのですか

 

 スケルトンを始めたシーズンの冬、1999年1月に全日本選手権に出たら6位に入賞しました。

そして、その春にスケルトンが2002年のソルトレークシティー五輪から正式種目になることが決まり、そこから国内でも選手を強化することになり、全日本で入賞したので、連盟から強化合宿に呼ばれました。

 会社に相談したら、オリンピックに出られるかもしれないということで、合宿への参加を有給で許されました。やるなら遊びではなく本気でやってみようと思いました。

 ソルトレークまでは時間がないし、突然オリンピックなんて大それたことは考えておらず、次のトリノオリンピックを目指せるようになれればいいなと思っていました。

 

Q ヒラヒラと乗っていたら速かったというのがすごいですね。

 

 タイムへの気負いはなく、とにかく楽しいということがそりに伝わっていたのでしょうね。また、私はやると決めると、のめり込んでしまうタイプかもしれません。

 

Q とことん行ってしまうのですね。

 

 不器用で1個のことしかできないタイプだと思います。あと、ターゲットを絞るとそこに没頭しやすい。

 

 会社へはオリンピックに出られるかもしれないと言いましたが、自分の本心としては、オリンピックを急に狙うのは競技に対して失礼だと思ったし、気持ち的にも無理を感じたので、今年は日本で一番になろう、一番になればワールドカップに行けると気持ちを定めて、自己流で練習を始めました。

 

Q 練習と仕事は両立させていたのですか。

 

 はい。上司がスケルトンをすることを面白がって後押ししてくれ、とても働きやすい環境を整えてくえました。

 

Q 会社として応援してくれたのですね。

 

 始めた頃は部署内での応援でした。理解があって仕事がとてもしやすかったからこそできたことだと思います。

身体を鍛えるようになって、心身のバランスが取れたのか、頭がよく働きアイデアも湧いて仕事も効率よくできたのは不思議でした。両立というほどではないですけれども、うまくやれて、周りにも恵まれて楽しく仕事もできていました。

 

Q ソルトレークシティー(2002)とトリノ(2006)の2度のオリンピックに出場された、

それぞれのオリンピックの時の思い出を聞かせてください。

 

 最初に出場したソルトレークシティーオリンピックは、始めてから3年目だったこともあり、すべてにおいて経験不足で何が何だか分からずに終わりました。

 印象的だったのは、全長1.3キロほどのコース脇に全部まで人で埋め尽くされていて、滑っていても歓声が聞こえるくらいだったことです。その後十数年試合に出ましたが、後にも先にもこんなことはこの時だけです。

 

 また、開会式では、JAPANとコールされ、舞台に上って行進していくのですが、そのときに受けた光(スポットライト)が忘れないというか、ウワーッという感じでしたけれども、それをすごく体で感じたというか、何ともうまく言えませんけど、後にも先にもない感覚でした。華やかでキラキラしていました。

 トリノオリンピックは、ある程度経験も積み、万全で臨もうと頑張ったのですが、競技(レース)以外の環境面などいろいろなものと戦って無我夢中になりすぎて、自分のすべきことができず、いい思い出より大変だったことばかりがよみがえってきます。

 

Q その後のオリンピックは?

 

 バンクーバーオリンピックとソチオリンピックは逃しました。バンクーバーの後、心身のバランスを崩し、気持ちはすごく強くあるのに、体調が思わしくなく悩んでいました。会社の私への競技支援も断ち切られたので、競技を一線で続けていくには会社を辞めるという選択しか残されておらず、2011年の秋に会社を辞めました。

ソチオリンピック(2014)は自分の蓄えで目指し、そこで競技者もやめるつもりでいたのですが、選考をギリギリで逃したことと、自分の思った滑走がまだできていなかったので、どうしても未練があり、競技者を続けようと決めました。

 

Q そして2018年のピョンチャンオリンピックを目指すという気持ちになったのですね。

 ソチを終えた時点ですでに43歳で、ピョンチャンでは47歳です。年齢を考えて常識的にいかがなものかとも思いました。また、スポンサーもなく、蓄えも尽きているけどどうしてもやりたい気持ちは変わらなかった。なので、とにかく一年は、先を意識せず、できる限りやってみようと考えました。

昨シーズン(2014-15)久しぶりにワールドカップを年間通じて転戦してみて、いい結果は出なかったのですが、滑りの中で余裕が生まれ、進化していることを感じました。

 

まだ伸びる、もう一度挑戦し、競技を極めたいという気持ちが高まり、次のオリンピックを見据えてもう一回挑戦しようとシーズンを終えた後、心が固まりました。

 

Q スポンサーなどの環境は?

 

 準備中です(笑)。実家に戻って、親に世話になっています。また、資金面では地元の方々に支援していただき応援する会を作ってもらって、準備をしています。

 

Q 当面の目標を聞かせてください

 

 今年は資金面での準備もないので、とにかく年末の全日本選手権に向けて、原点となった長野のコースで滑り込んでタイトルを狙います。優勝して海外に出る権利を取って2月にアメリカで行われる試合に出られれば今年はいいかなと思っています。一つ一つ、オリンピックに向けての準備をしたいと考えています。

 

ありがとうございました。

 

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